一波後に凪恋うる 本編サンプル
容量いっぱいに張られた湯が波打って淵からとめどなく溢れてくる。夜を共にする為に存在するホテルの角部屋、高ランクの部屋に備えつけれらた浴槽は丸形で浅く広い。そこに張られた水は今や半分程になろうかという位に減らされていた。
「もう一度言ってみてくださいよ」
男は薄ら笑いながら自身が濡れるのも構わずスーツのジャケットだけ脱いだ状態で浴槽の中に立っていた。断続的に波打つ飛沫がつけていたままの薄青のネクタイにかかって色が濃くなる。
「あーあ。ネクタイって濡れると材質によっては解いて芯材を整え縫い直さないといけないのに。しかもそこそこ値がするんですよ。これ結構いいものなのに」
溜息交じりに雑にネクタイを解き、両端を持ってぴんと張った。「それ」を抑えていた片足をどけると水中から掬い取るように柔らかなものを引っかけ、引き上げる。
「さっきからちゃんと聞いてます?」
引き上げたものの首裏に膝を当てて支え、喉をネクタイで圧迫した。そうして強制的に上を向かされた顔からは濁った咳と水が何度も出ていく。反った胸は全力疾走したように張り付いたシャツごと上下している。先程まで頭を踏まれて水中に沈めれていた男はずぶ濡れの顔を歪ませながら必死に言葉を出そうとしているが、喉が攣りか細い呼吸しか出てこない。それでも何か口にしようと必死なのは、ここで返答しないとこの後何をされるか分からないからだ。少なくとも今より事態が悪化するということだけ経験で知っている。
「この場において何をしてはいけないか、忘れてしまいましたか?」
「……む、むし、しないっ」
せり上がってくる水に咽せながらなんとか口にすると、満足そうにスーツの男は笑った。すっかり色の変わった上質なネクタイを浴室の白いタイルに放ると隅に備え付けられたカランまで移動する。ゆっくりと水のコックを捻るのを見て絶望したが、男は静かに見ているしかない。手首と親指、足首を結束バンドで縛られているからだ。この隙に逃げ出す事も叶わない。今だけじゃない。この後手足が解放されようと逃げ出すなど無理だろう。この男には全て知られている。確認した事はないが、確信していた。
「なんで。やめてください」
「ちゃんと敬語を覚えて偉いですね」
「みずっを、とめてください」
「口答えしていいって誰が言った」
空気が凍り付く。はくっと縛られた男の唇が震える。
「ごめ、すみません。申し訳ないです。あの鈴木さん、様、かたじけない…?」
酸欠気味でぐちゃぐちゃの謝罪を吐く男の、張り付いた髪の隙間から覗く情けない揺れた目の必死さに、鈴木と呼ばれた男の吹き出す声が反響する。
「清々しいほど言葉を知らないな。でも必死なんですよね。怖いから。可愛いと思いますよ、旭陽さんのそういう素直で頭悪そうなところ」
朗らかに言いながらカランを全開にした。水中で藻掻いて減った水が轟音を響かせながら再び満ちていく。ざぶざぶと歩いて旭陽の側、白く丸みがかった縁に腰掛け長い足を組んだ鈴木は何かを思案するように腰まで浸かった旭陽の姿を眺めた。
「こういう場所の浴室って広いし、清掃の手間もなくて多少汚れたってなんの疑問も抱かれなくて便利なんですけどね。壁も厚いし。ただ浅いんですよね。次はそうだ。プール付きのホテルにでも泊まりましょうか。頭を抑える手間がない」
アナタの年収なんかではとても泊まれない場所ですよ。夕食もそこでとりましょう。などと話す彼に思ってもない感謝を述べる。そうしないといけない。この男には逆らってはいけない。初対面から嫌というほど教えられたことだ。不自由な膝と全身を使って擦り寄り、組まれた足先にキスをした。もう止めにしてくれと祈るように項垂れて媚びる姿で固まっていると、ビリと何かを破る音がした。そちらに目を向ける前に組んだ足を解いて鈴木も膝をつく。
目線を合わせ頬を撫で、張り付いた旭陽の髪を掻き上げ、キスを返すように唇を触れ合わせた。舌が滑るように唇をなぞり、科学的な甘い匂いをさせ口内を荒らす。奥まで入り込み旭陽の舌を舌裏で撫でながら何かを入れて出ていく。するりと入ってきたものはコーラ味の飴だった。
「コーラ好きですよね。私はあまり好みじゃないですけど。あげます。あと、息吸った方がいいですよ」
後頭部に添えていた手に力が入ったのが分かる。旭陽は責め苦がくるのを感じて身を固くした。至近距離で笑う、冷たい顔。
「その飴吐き出したら朝まで延長だから」
今が何時でどれほど耐えたら終わりなのかも知らされないまま、ばしゃんと視界が泡立った。